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【アラベスク】  第12章 マジカル王子様



第2節 権力の天秤 [21]




 智論は視線を手元に落す。
 この子も傷つくかもしれない。でも、慎二を元に戻したい。
 昔の、まだ普通に人を好きになる事のできた頃の、他人を拒絶する事も見下す事もなく、ただちょっと臆病ではあったけれども殻に篭ってしまうような事などなかった頃の慎二に、戻って欲しいと思う。
 戻ってくれれば、それ以上は望まない。
 智論は長い間、ずっとそれだけを心に秘めてきた。
 戻ってくれればそれでいい。それでいいのだ。
 唇を噛む。
 自分は汚い。ひどい人間だ。ひょっとしたら、今の慎二よりもよっぽど卑劣な人間なのかもしれない。それでも、慎二を元に戻すチャンスがあるのだとしたならば、その機会を逃したくはない。
 瞳を閉じ、ゆっくり息を吸ってから顔をあげた。そうして、まっすぐに相手を見つめる。
「慎二はもともと、女性に対して不信感を持っていたの」
 それは、以前にも聞いたことがある。
 だが美鶴はそんな言葉を喉の奥へ押し戻し、黙って相手と向かい合う。智論はその瞳に促されるように話を続けた。
「慎二はね、三人兄弟の末っ子なの。三人とも男。二人の兄がいるわ、でもね」
 慎二とは違い、涼しさよりも暖かさが優先する社交的な好青年。二枚目の中にも三枚目を潜ませる笑顔の美しい青年は、一見軟派かと思いきや意外に礼儀を重んじる。
「でもね」
 智論は脳裏に浮かぶ姿を振り払うように語気を強めて言った。
「でもね、次男の、慎二のすぐ上の兄は、父親が違うのよ」
 霞流家の次男、慎二の兄、霞流塁嗣(たかし)。彼の父親は慎二の父である霞流雄一(ゆういち)ではない。
聖美(きよみ)さんが、慎二のお母さんが、その…」
 その先は察してと言わんばかりに言葉を濁す智論。美鶴も、その先を無理に言わせようとは思わない。言いたい事くらいわかる。
 なんとなく気まずくなってしまった雰囲気を打破しようと智論はショコラをパクリと頬張り、紅茶で一気に飲み込んで息をついた。
「たぶん、普通だったらそこで夫婦仲は一気に冷えるでしょうし、最悪離婚って結末に発展してもおかしくはないんだけど、聖美さんたちはそうはならなかった」
 今でも、霞流聖美は霞流家の女性として籍を置いているし、霞流家のために働いている。
「私にはよくはわからないんだけど、霞流の家は製糸関係の仕事をしていて、でもそっちの業界って、今はかなり厳しいらしいの」
 大手企業や外国の安い製品などに押され、老舗会社などあっという間に潰される世界。
「そんな中にあって、聖美さんは霞流家にはなくてはならない存在だったみたい。だから霞流家としては、聖美さんを手放したくはなかったのよ」
「じゃあ、仕事に利用するために離婚はしなかったと」
 憤然と口にする美鶴。
「まぁ、聖美さんの方も知多木綿に惚れ込んでいたところがあったみたい。与えられている仕事も好きだったみたいだし、悪いのは自分だっていう負い目もあったんじゃないかしら。霞流家に置いてもらえて仕事を続けさせてもらえるならっていう条件で、双方折合いをつけた。そんなところねって、聖美さんが笑いながら言ってた」
 少し寂しそうにも見えたけど。
「霞流さんのお母さんの仕事って、何なんですか?」
「まぁ、簡単に言えば宣伝よ。知多の工場で作ってる木綿の営業販売」
 京都で出会った慎二の母親。華やかで社交的で、営業という仕事がとても似合いそうな女性だった。
「聖美さん、知多木綿をとても愛しているみたいなの。知多木綿とか日本の伝統的な布が外国の安い製品に押されて消えてしまうのは絶対にもったいないって、いつも力説するのよ」
 思い出すと笑ってしまう。最新ブランドで身を着飾り、世界を股にかける大企業の重役や資産家の名刺を片手にしながら日本の伝統について熱っぽく語る彼女の姿は、傍から見れば少し滑稽だ。だが、とても馬鹿にする気にはなれない。
 彼女は、純粋なのだ。日本に古くから伝わる木綿という素材をとても愛している。
 そんな女性が夫以外の男性と浮気をするなどとは、智論はどうしても考えたくなかった。
 聖美さんの方にだって、何か理由があったんじゃないかしら?
 だがそのあたりの事情を、智論は知らない。根掘り葉掘り聞くのも失礼だし、詳しくはわからない。
「だから、二人とも夫婦仲を修復しようと努力したみたいなの」
 智論は気を取り直そうと無理矢理口を開いた。
「そうして、慎二が生まれたの」
 霞流慎二は、兄とは違い、正統な霞流家の息子として生まれた。世間に後ろめたく思うような素性なども背負ってはいなかったし、心身に障害などを持って生まれてきたワケでもなかった。だが慎二を取り巻く環境は、決して良好とは言えなかった。
 まず、父親からはそれほどの関心は持たれなかった。
 幼少は知多で育った。仕事柄不在がちな母親よりも、父と過ごす時間の方が圧倒的に長かった。なのに慎二は、父親には馴染めなかった。
 父の雄一は、良く言えば仕事熱心な人間だ。だが悪く言えば、単調を好む人間でもあった。
 霞流家の長男として生まれ、ただ与えられた家業だけを従順にこなしていればそれでいい。自分から何か新しい事にチャレンジしたいなどという好奇心や向上心などは、ほとんど持ち合わせてはいなかった。
 そんな彼にとって、必要なのは長男一人だった。自分の仕事を受け継いでくれる長男さえいれば、子供はそれで事足りる。次男などは自分の血を受け継いでもいないので論外。さらに三男の慎二に対しても、大した愛情は示さなかった。
 夫婦仲を修復する過程で生まれただけの事だ。
 だが事情を知らない慎二は、なぜ自分が父から疎外的に扱われるのか、理解できなかった。







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